9月23日14時からの中日法要参加のため戸越銀座行慶寺さんへ向かう。
自転車の荷台に墓参り道具を乗せて、途中で花を買い値段を聞いて
私が怪訝な表情をしてのか?店主が察知して、「いま花が不足で相場が
上がってしまい」と言い訳をしながら紙で包んでいた。
売る側買う側が商人なので、墓参りの花の数百円の値段を気に掛ける感覚
がせちがらいなと思うが,習性だから仕方ないなと自転車をこぎ墓地に到着。
今月は母の命日で、9月初旬にお参りに来ているので2回目になる。
以前はお彼岸は回向の為に住職には自宅に来ていただいたが、
コロナを口実に双方が往来を絶っていたのだが、父の23回忌、
母の13回忌の年に当たるが今年は法事も出来ないので、
彼岸法要に参加する事にした。
コロナ過という事で参拝人も20人位で少ない事でした。
行慶寺様の先代住職が人柄が良く、なんでもお見透しされていて
私にも「これまでよく頑張りましたね」とお会いすると声をかけて
くださいました。
お互いに次の代に譲った身で、少し時間ができたのでゆっくりと
積る話をしましょうと2020年12月にお話をしていたのが、
突然新年早々逝去されてしまいました。残念でたまりません。
数年前に住職を娘婿にゆずり、彼岸は若い住職が務められるが
読経の声が小さい、丹力が弱いのか、何も伝わらない読経。
読経が終わり、ご挨拶の法話はこれまた更に何を言いたのか解らない
眼力も定まらない、内容も伴わない発信力では今後どうなる事か心配で、
帰り際に大奥様にその苦言をお伝えして帰る事が2度ほどあった。
結果本堂でのお参りに行く気が失せてしまい欠席が続いていた。
然し今年は両親の法事も出来なので、彼岸会にはお参りしよう
と参加を決めた。
ところが読経が始まると、いつもとは違い声が通っている、
心地よく心に届いて心地よかった。
最後のご挨拶では、前日見た満月の話をされた。
【月影のいたらぬ里はなけれども、ながむる人の 心にぞすむ】 という
浄土宗法然上人作のうたを披露された。
何処にもが月の光は平等に届くが、それを眺めようとしない人には月影の
素晴らしさは解らないという意味ですと解説をされた。
私は耳にしたことはあったが、これが浄土宗の開祖の言葉だとは知らなんだ
一つ利口になつた気がした。
帰り際大奥様と若奥様に、今日の住職のお経は声が澄んでいて、法話の内容も
よかったですと伝えると、「本人が歓ぶと思います、小林さんがほめてくれた」
と、お二人のお顔が同時に笑みでくずれました。
気に掛ける人が多く居るが、正せるのは本人の気持次第で
自分がどの様に月見る人なのか、お歌そのものではないかと思いました。
頑張れ住職、多くの人が期待をしているのです、小林は松戸からお墓を
わざわざ引っ越ししてきたのです。
お寺さんも商人と同じ、いかに集客できるか、営業努力をするべきです。
合掌