11月9日酉の市に今年は悩みながらも、行かねばならぬと、自分に言ってきかせて参拝。
何故酉の市に今迄通ったかと昔を思い起こすと、今を去る事70数年前位になる計算か?
父親は下町本所で襖骨を製造する店に、13歳頃から丁稚小僧で奉公に入り、20年程務め
番頭として店を仕切っていた。
何故仕切っていたかという理由は、店の主人が仕事をせずに遊び人だだった為に
仕入れから製造、弟子の指導から資金繰りまで父親してたが、店に支払いの金がなく、
骨の端材で額を作り、休みに売り歩いで、支払い資金を作ったという昔話を聞いていた。
26歳で結婚してから6年後、1948年独立をすることになり襖材料卸業として開店した。
そんな状況では退職金もなく、女房と6歳の子供(長女の私)を連れて、貯え資金もなく
裸一貫での開店となった。
店を構えるのに一銭もないのに店と住まいを作ってくれた大工さんには、襖材料をお渡し
して支払いに替えさせていただいたという。
奉公の時の信用があつて、ある時払いの催促無しで協力を頂いたとの話でした。
今時はあり得ない、何とも人情噺の美談ですが、夫婦二人で一生懸命に働いて
返済を早く終わらせたが、その温情に感謝をして働いて、ご恩に報いた創業者の
生きざまが、今の私にしみついているように思う。
そんな創業者が店を持ち、年末の酉の市に店の若い衆を伴い、仕事終えて繰り出し、
商売繁盛のかけ声でを貰い、手締めをしてご祝儀を渡し熊手を担いで、帰り道
一杯ひっかけて気炎を上げたろう昔を想うと、良き時代だったことが想像できる。
そんな時代を過ごしたが、父親が病気をして、若い衆という住み込み店員はいなくなり
通勤の学卒社員の組織になると、酉の市に行く手がいなくなり、毎年人を頼んだり
して浅草行には苦労をしてきた。
そのうち子供や孫が一家総出で参加するようになり、休日の明るい内に行ったが、
それもつかの間孫も成長し、結果長男と二人で行く時代となり、今に至っている。
私も来年80歳、何時まで会社に携われるか、このまま継続できるのか、やめるのかの
方向性は後継者が決めることになると思うと、心がぐらつくのです、継続か終わりかと。
熊手は商売繁盛の縁起物という観点と、熊手やさんとの長い付き合いの関係がある。
年1回顔を合わせて、「元気か、何処か痛くないか」、と老体を気使いながらの会話
互いに若かったころから50年にもなる付き合いで、熊手屋さんも引き際が頭によぎるが
やはり年1回の逢瀬で、互いに商売と体の塩梅で、無事を喜ぶことも大事な事と思う。
わが社の熊手は、木製の一刀彫のお面でとても貴重品、毎年送り返してはデザインを
変えて化粧直しをして、正面に飾付けをして待っていてくれる。、やはり私はまだ
止められない「又来年まで元気でね」と,はぐして別れを告げて帰路に就く。
昔と違い夜中に行くことはなく明るい内に浅草に到着するので、身体に負担はない。
熊手は毎年力作なので、写真を撮り、年賀状に印刷をしている。
毎年デザインが違うのは、小さくて解かる人はいないと思うが、一応芸術品として
毎年写真で記録を残している、わが社はこだわり派ですが、これは道楽の部分に
なるのか、僅かでも日本の経済に貢献してると考られのか。
この祭りごとは消えゆく運命の日本の伝統行事なので、しばらくは僅かながらの貢献と
今年も1年間の労をいたわり、くる年も頑張って商売繁盛を目指す様にい致しましょう。